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今昔きもの美に 触れて・・・眺めて・・・着こなして・・・   あなた色のコンテンポラリーな着物ライフはじめてみませんか
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明治初期、三河豊橋に、製糸業を起業した一人の女がいた。上州から駆け落ちしてきたその女は、最愛の男を亡くした後も、玉糸開発に打ち込んでいく‥‥

私が日舞の稽古を始めた6歳のころ、そのお稽古場は「糸徳学園」と呼ばれていた、女工さんたちの寄宿舎だった処で、花田から師匠が出稽古に来ていました

木造2階建ての薄暗い、やけに広い階段があったこと、踏み板をぎしぎしと走って渡って行くと幼稚園まで続いていたこと・・・

「小渕しち」 という名前は小学校の歴史の授業でも聞いたことはありましたが・・・

そして、その昔、二川は製糸工業が盛んだったことも一応は・・・

でも 「小渕しち」 さんという方の人物像についてはそれほどの興味もなく・・・

それがこの度のこの舞台を見ることで色々なつながりを改めて感じたのでした

群馬県から駆け落ちしてこの三河にとどまることになったしちは、座繰り製糸の技術を身につけていた

しち夫婦の、戸籍の偽造にかかわったのが母の実家、大岩寺

この三河で、玉糸の開発を手がけ、くず繭として扱われていた利用価値の低かった玉繭から生糸にも劣らぬ糸を引き出すことに成功し、「蚕都豊橋」の名を日本中に広める礎を築いた女性

大正天皇から産業功労者表彰をも受けることとなる、当時の女性としては稀なキャリアウーマン

男女平等が当たり前の現代でも、まだまだ世間の風潮は、昔を引きずっていて、特に田舎はよそ者意識がいぜん強いよう・・・

そして新しい事や考え方にも然り

このお芝居を通じて、演出家のなかとしお氏はこう言っています・・・

明治の時代を生き抜いた人々は今の我々に比して、一見自身ありげだ。とりわけ小渕しちのように成功した人々はそう見える。だが、実際そうだったのだろうか。成功は単なる結果であって、彼らも先が見えない時代を必死に良き、もがき、一生懸命だったに違いない。その生き様がともすれば未来が見えず失望しがちな我々に、時代を超えてエールを送ってくるのである」

席数300の小ホールは満席、途中すすり泣く声があちこちから・・・

熱演の舞台には惜しみなく、暖かい拍手が鳴り止みませんでした!

久しぶりに感動の舞台をありがとう!

何かとても心地よい興奮に酔いしれながら帰途についた私です

☆☆☆

玉繭とは二匹の蚕が作ったひとつの繭のことで、糸が中で絡まってしまっている為不良品として扱われていたもの。その割合は2割とか

今では逆に貴重価値として、白山の麓で織られている手織りの牛首紬が有名











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