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今昔きもの美に 触れて・・・眺めて・・・着こなして・・・   あなた色のコンテンポラリーな着物ライフはじめてみませんか
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名古屋の短大に進学した私は行動範囲も広がり青春真っ只中・・・部活はI.S.A.に入り名古屋の幾つかの大学と合同の組織での活動に参加。英語科の授業はどれも結構楽しく、人生の中で一番苦もなく色々な事が吸収できたかと。

部活でアジアからの学生とのdebate contest のvicechairman になって英語で夢を見るくらいに勉強したのもこの頃のこと 

英語はコミュニケーションのためのものに他ならないと認識していくと自ずと関り方も変わっていきました

友人の下宿に泊り込み、よその大学の学芸祭にまで参加して徹夜で討論したり、机の上で寝たことも・・・少し悪女でもありました

一方、お稽古のほうも数年後には名取をと、ひそかに自分の中で想いが膨らんできていて、名披露には何を踊ろうかと・・・

道成寺、鷺娘、鏡獅子・・・この3つのどれにしようか、それはそれは真剣に悩み始めていて、まさに恋焦がれるようにいろいろな方の舞台を見るようになっていき・・・

立ち役(男踊り)と女形両方を色々稽古させてもらって、どちらも踊れるようになりたいな・・・そんな思いは師匠にも通じていたことでしょう

両方を稽古することで体の使い方の違いは自然と身についていくもの・・・積み重ねていくこと・・・階段を少し上がったかなと感じるには相当の月日がかかるもの・・・

夢は行動の原動力ですね!


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日舞の師匠は東京、神楽坂辺りの生まれで、体が弱かったので兵役に採られることなく、当時向かいにあった稽古場に内弟子に入ったと聞いています。

内弟子の間の3年間、庭を隔てて住まいがあっても盆と正月以外は帰ることは許されなかったそうです。その当時、内弟子は何人も居たそうですが、東京の地理に詳しいというので、よくあちこち使いに出され、歌舞伎座にもよく出入りしてたとか。お芝居の見られるチャンスでもあったのに・・・もっとしっかり色々見ればよかったなあ、とずいぶん後に話していました。

考えてみれば師匠の若かりし頃は、昭和の初期、今も語り継がれているような、名役者がずらり・・・名舞台が目白押しだったことでしょう!6代目尾上菊五郎、梅幸 、松本幸四郎 等々・・・生の舞台をどれだけ見たか・・・これはそのまま芸の肥やしとなるわけですから

何はともあれ、終戦前に内弟子同士で結婚、こちらに居を構え、三河のあちこちで出稽古を始め生計を立てていったようです。当時は見番・・・芸者さんが芸を勉強する場所…にも行っていたと聞いていますから、おしゃれで、粋な師匠は、さぞやもてたことでしょう?



話は少し戻りますが、父は大正生まれで少々頑固。女の子は適齢期にお嫁に行って家庭を守るのが一番と考えていたところがあり、高校の選択もそれが優先され、本人の意思でなく父の希望に沿って決定され、大学の進路もまた、地元から通える範囲でという条件がつきました。しかも2歳下の弟と大学が重ならないように短大にと。

大学は東京で本格的に英語の勉強をしたい、と内緒で願書を取り寄せたのも見つかり・・・

家から通えば稽古も続けられるしそれが一番良いとか何とか説得され、それでもと反対するほどの強さも(当時は)持ち合わせておらず・・・サラリーマンの家庭では経済的なことを言われたら・・・今一歩飛び立つ勇気のなかった私

一方、稽古をずっと続けていること・・・このことは私の中で支えとなりつつあったのです

性格的に後ろを振り返るタイプではないので、まあとりあえず親の希望のままに・・・その後のことをゆっくり、じっくり考えながら・・・自分探しを始めました



祖母亡き後、箪笥の整理をすると、菓子箱いっぱいに呉服屋さんの領収書・・・3人の娘の嫁入仕度等々のものだったようです。着物にあまり興味のない母にとってはきっとショックだったことでしょう!後にそれらの着物の一部は私の元に里帰りしましたが・・・

一方、小5より英語の塾に通っていた私はいつしか漠然と、大きくなったら外国に行って踊りを披露すると同時に英語の通訳もできたらと思うようになっていました。自分で踊って英語も話せる人はあんまりいないんじゃないかなと考えたのです。

若いときは怖いもの知らず・・・自分の能力のいかばかりかということより、「どうしたいか」ということが第一で・・・

高校時代、部活は卓球部と、茶道部・・・日舞には「所作」と呼ばれる いわゆる日常の動作を「振り」として見せるところがあり・・・例えば長唄「春興鏡獅子」の中で、お小姓 ”弥生”は、袱紗捌きの振りをしますし、手馴れているに超した事はないのです。又、日舞の動きには「立役」と「女形」があり、体力もそれなりに必要でスポーツ同様腰の鍛錬が不可欠です。

あれもこれもと欲張ってもエネルギーは消えることなく・・・夢も果てしなく・・・

稽古にも、英語の勉強にも熱が入り、さて大学は・・・・と進路を考えなければならない時がきました。

あんなにいやだと思った日舞のお稽古が、いざなくなると、妙にさびしく、何か物足りない・・・抵抗も3ヶ月であっけなく終わり・・・お稽古が無性にしたくなったのでした!

何かが吹っ切れたのでしょう、それからの私は真面目に自分の意思で通うようになっていきました。ひ弱だった身体も段々に丈夫になり、それなりに辛抱することも少しずつ覚えて・・・気がつけば小学校は一日も休まず皆勤賞(高校3年の2学期迄無遅刻無欠席は現在では自慢にならないかしら?)

祖母の芝居好きから始まった日舞との出会い・・・それは着物との関わりの出会いでもあったのです

中学に入るとおしゃれ心も芽生え?舞初めには姉のお古でなく、私の着物が欲しいと祖母におねだりしたのもこの頃で、17歳になったらお振袖を買って上げるからねと言われとても喜んだ私・・・それから程なく祖母は1週間ほど寝ついただけで亡くなったのでした。

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