[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
日舞の稽古も当たり前のように通っていたのですが、あるとき、師匠の理不尽な稽古の仕方に納得いかず、「もういやだ!」とやめてしまいました。
伝統芸術の世界は大方そうであるように、一日でも先に入門すれば先輩であり、教えてもらう踊りもその順番で先輩より先に教わることはないのが常であって・・・
ひとつ上の友達は私よりうんと遅くに入ったのに・・・・と幼き私はなぜかそのことに無償に悔しく稽古を放棄したのでした。
学校からの帰り道、横目で稽古場を見上げながら、少し後ろめたい思いを引きずって・・・
その分、勉強やお習字、そろばん、頑張るんだから・・・と自分を一生懸命納得させたていたような・・・素直でない少女でした
一方で、日舞の稽古、どうしようかな???と毎日考えながら・・・
たいていのお稽古事には発表会なるものがあり、それを目指して稽古に励むのが常ではないでしょうか?日舞も同様で夏の浴衣会、一月の踊り初めと年2回小さなお浚い会があり、それとは別に本格的な衣装(歌舞伎衣装)での舞踊会なるものが隔年開かれてたと思います。
浴衣会は旅館の大広間で行われ、顔も少しお化粧してもらい、小道具も持っての緊張の舞台だったことでしょう!
最初のころは浴衣会でもお三味線の生演奏付でした!!!(本当は「地方つき」といいます) 都会ならいざ知らず地方での古き良き頃と申しましょうか
当日は大人の世話役さんたちが会場の片隅にビニールシートで大きな水槽を作ってくれ、そこには大きな氷と懐かしいラムネのビン!がいっぱい入っていてなんとなくウキウキ・・・
観客は主に身内ばかりでしたが、この日ばかりはとおめかしをした(黒の紗羽織姿)祖母は、それこそ嬉しそうな顔をして孫の晴れ姿を見てくれていました。
ここで着ている浴衣は40数年たった今も健在なのですよ!(年がばれてしまいますね)
その浴衣は毎年、お師匠さん自らがデザインし、型を作って三河木綿に染めてもらっていたと聞いています。「ガチャマン」という言葉をご存知でしょうか?機織産業が全盛期の頃、そんなことも可能なくらいお弟子さんがいっぱいの稽古場でした
稽古場は小学校からの帰り道にあり、行くと祖母がいつもそこで待っていました。日舞の稽古はお扇子一本前に置き、お辞儀してお扇子の開き方から教わります。祖母に浴衣を着せてもらい、脱いだ浴衣を祖母が嬉しそうにたたんでいたのを記憶しています。浴衣といえば稽古着でそれで外を歩くなんて考えなかった子供時代。お祭りにはちりめんのお着物に金襴の帯を締めてもらい、神社の境内の舞台で踊り、おひねり(お金を和紙で包んで舞台に投げてくれるのです)をいっぱいもらいうれしかったこと・・・稽古すると祖母も喜んでくれ、自分もお小遣いがもらえる・・・
稽古場の前にはちょうど駄菓子屋さんがあって、終わると祖母に10円もらい、そのお店であれこれと買う事ができる・・・・・とても単純にそれだけを楽しみに稽古していたような小学校低学年だった気がします。
そもそも着物に縁持ったのは40数年前、祖母に連れられ日舞の稽古を始めたことからです。 昔よりこの日からお稽古を始めると上達するよと言い伝えのようなものがあり、少々ひ弱だった私は言われるまま素直にお稽古に通うこととなりました。明治生まれの祖母は大の芝居好き、新幹線のない時代、8時間以上かけて歌舞伎座までお芝居を見に行き、テレビで歌舞伎の番組を見れば瞬時にその外題も内容も理解しているような人でした。