今昔きもの美に 触れて・・・眺めて・・・着こなして・・・
あなた色のコンテンポラリーな着物ライフはじめてみませんか
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話は少し前後して・・・
結婚して順調?に子供にも恵まれ、人生の中でも最も密度の濃い時期(私見ではありますが)
ふつふつと自分探しの気持ちも芽生えていって・・・やりたいこと、したいことはなんだろう?と自問自答する中・・・
新居の間取りや設計も、あれこれ雑誌を読みあさっては研究に余念なく・・・
忙しい主人は、建坪の制約を課したのみ、あとは全て私の手にゆだねられたので、自ずと力も入りました
制約あるスペースの中、機能的なキッチンや日舞の稽古部屋(ホンヤとして和室の続き部屋の確保のことでもあります)の部分の設計は特に悩みながら・・・
一方、その数え6歳から続けてきた日舞はというと・・・
当然ながらしばし休憩状態でしたが、少し子供の手がかからなくなってくると次第に頭の中は・・・「お稽古したい状態」
次男がよちよち歩きを始めた頃、名取を一緒に取ったお仲間を通して、師匠からそろそろ稽古に来てはどうかとのお誘いを頂き、この機会を逃しては、ということになり・・・
ちょうどこの頃、社中の名取連中を集めて研究会が行われるようになっていたようで、この度は「京鹿の子娘道成寺」の稽古を行うとのこと
「もう絶対参加したい!!!」 との一心で
人間したいことがあると、強くなるものですよね?
長男とまだ1歳半過ぎの次男の二人を連れ、刈谷から、徒歩20分(子連れの足では30近くかかりましたが)と名鉄、JRと電車を乗り継ぎ、2時間近くかけて実家へ行き、子供を預けて稽古場へ
久し振りに享受する(ちょっとオーバーかな?)この貴重な時間は無駄に出来ないと、それこそ夢中で稽古して・・・
真夏の、稽古場として利用させていただきました伏見稲荷の広い広間はクーラーもありませんでしたから、稽古の後、実家で飲んだビールのそれはそれは美味しかったこと!!!忘れることの出来ない思い出です
こんな楽しみも社宅時代に持ち始めるができたお陰で、子育てのストレスもたまることなく・・・
子供たちの成長の日々と自分を重ね合わせながらの毎日・・・30歳目前の熟女?の頃のこと
前途洋々たる感あり! でした
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もう20年近くなるでしょうか、我が家のブーゲンビリアが今を盛りと咲き誇っています
年子の次男が幼稚園に入るまでの6年ほどを社宅で過し、長男である夫の実家の敷地に家を建てたのは昭和60年のお正月
その間のことは、記憶力の悪い私は断片的にしか覚えていないのですが・・・
人一倍手のかかる次男に翻弄され、ご飯を狭い台所で立ったまま食べたこともしばしば
お風呂に長男を沈みかけたこともしばしば・・・(笑)
次男を寝かせては、社宅内の公園で過すのが日課で、同じ年頃の友達と砂遊びに興じる長男を見ながら、そこでセーターやらベストを編み上げたこと
あるとき、突然高熱を出した次男にびっくりして、会社にいた主人に電話して病院に連れて行ってもらい、痙攣も起こしていたのですが症状も治まると、夫は又会社へ戻って行って・・・
免許を取る必要を痛切に感じたときでした
二人が交互に怪我をして、頻繁に外科へ行ってはあちこち縫う始末に、お医者様にも覚えられるほど
姉からは何時電話しても騒がしくて、話もろくに出来なかったと、後によく言われました
でもどれもが若かりし頃の、本当に楽しい家族風景として残っていて・・・
そんなこんなの社宅生活からおさらばしての新居で、子供たちの集団生活もスタート
ようやく私も晴れ着を着る機会を迎え、入園式には何を着ようかしらと、呉服屋さんへ品定めの楽しみが出来てきた頃・・・子育てに専念して、五年が経っていました
お仲人さんから、「10年間は子供と向き合った生活を」 と言われたその言葉を忘れることなく・・・
親の気持ちはなってみないと分からないと言われますが本当にそう・・・
・・・三つ子の魂百までも
・・・介護は段々大変になるけれど、子育ては日に日に成長する楽しみが
先人達の教えを心のどこかにおきながら、私たちの子育てが始まりました
とはいっても時は高度成長時代、主人の帰りは毎夜12時過ぎでほとんど母子家庭状態
まだ自動車の免許もなく、毎月保健所におんぶして自転車で通ったものでした
未熟児で生まれたせいか、お乳の飲みは相変わらずか細く、夜中に何度もおっぱいを含ませながら一緒に泣いていたことも
(一才の誕生日にようやく8,2キロになりました)
そんな中、体調がおかしいので病院へ行くと、「お目出度です!」
主人は「やったー!やったー!」 と大はしゃぎして・・・
「実は、卵巣の手術後、『一方の卵巣は完全に壊死していました、片方は卵巣の部分のみ残しておきましたが二人目のできる保障はありません、制限しないで頑張りなさい?!』と言われていたんだ」
そんなこととは露知らず・・・
「僕の子供は運の強い子達で、本当によかったねえ!」と、あくまで明るく陽気な笑顔の夫
これが最初で最後の、夫の隠し事だったと思います
話は戻って・・・昭和55年5月
無事に長男誕生! 体重は確か、2200グラム弱だったかと
予定日より、一ヶ月も早く、体重も少なかったので、そのまま保育器の中へ・・・
母子対面も叶わず、母となっても、初めは実感もわかず、何か不思議な感覚を覚えていました
無事に生まれて、ホッとしたのもつかの間、保育器の中の彼はその後ちっとも大きくならず・・・
搾乳機で絞っては看護婦さんが飲ませてくれていたのですが、本当に弱々しい飲み方で、それを見ていると、悲しくて涙が溢れてきて・・・これが「母の想い」 母となった実感でした
そんな様子に、つま(夫)は、「あんな状態で生まれた子なんだから、生命力の強い子なんだよ、大丈夫、大丈夫!」と、明るく言い放っていました
「父」 となったつま(夫)の最初のお仕事?は、命名
本を買ってきて真剣に、楽しく?悩んでいた様子
男性にとって、自分の遺伝子を伝えることはやはりとても意義深いものなのでしょうか?
毎週末、刈谷から豊橋に帰ってきては、保育器の中の息子に呼びかけていました
「おーい、お父さんだぞ、わかるかー?」 ・・・「???」
一ヶ月ほどして、先に退院していた私と二人で迎えに行った時、息子はようやく、2450グラムまで大きくなっていました
オクルミに包まれて青空の下、初めての日差しはさぞまぶしかったに違いありません
彼のがっちりした腕からこぼれ落ちそうなくらい、小さなあたまと小さな手・・・我が子を抱く 「父の顔」 は、喜びと、嬉しさに溢れていました!
今回はちょっと寄り道して、まか不思議なお話を・・・
父の弟は、昭和20年5月にフィリピンで戦死・・・弱冠17歳
父の父(私の祖父)と、祖母は、彼の出征の時、連隊のある広島までわざわざ出向いたそうです。が、知らせとは異なり、隊はすでに戦地へと出発していて、最後の一目すら会う事が叶わなかったとのこと
長男である父も(戦地から)未だ帰らず、その上、広島で会えなかった次男までもが、そのまま戦死してしまい、祖父は、気がふれてしまったそうです
特攻隊への志願は、祖父に黙ってしたこと・・・運動神経抜群の彼は、友人達とともに試験を受け、皆が落第したのに一人受かって、それ故に・・・
親が子を失うことは、どんなに辛いことか・・・「隅田川」という舞踊でも、子別れをテーマとしていて、その悲しみの舞台は常に共感を呼ぶものです
時流れて、昭和26年、私の姉が生まれたその日を境に、「こうしているわけにはいかない」と、突然、正気に戻ったそうです
それからは嘘の様に別人のようになり、生まれた姉を本当にかわいがっていたそうです
働き者で、器用、ブランコや滑り台を作って、姉を遊ばせていたそうです
又、あちこちの手伝いにも行って、重宝がられたそうです・・・まるで仏様のような穏やかさだったそうです
初孫が息子の代わりとなったのでしょうか?
そして、私の生まれる、その年の4月の法要の日、息子の墓碑を立てるため、山から、リヤカーでこの写真の大きな石を運んでくる途中の事故で亡くなったそうです
父は、そんな祖父も見て、自らも戦地に赴き、その人生はずっと戦争を引きずってきて、昨年ようやくその人生の終止符を打ったような気がするのです
お昼寝するときも、絶対に横になることをしなかった父・・・若き頃の身についた習性として生涯消えることはなかったのだと・・・
そんな父から、お酒を一緒に飲む折何度となく聞かされた、祖父の(戦死した)息子の墓碑に刻んだ歌・・・
しきしまの 大和をのこの わかざくら
ここくの花と ちりにけるかな
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